001


 迷った。
 入学式を30分後に控えた第一高校キャンパスの一角で、姶良姫奈は途方に暮れた目を空へ向けていた。
 開場1時間前に学校に到着したのがいけなかったのか、適当に時間を潰そうと講堂を離れてしまったのがいけなかったのか。どこを曲がっても同じ道だな、と気付いた時にはもう遅く、彼女はとっくに迷宮に取り込まれてしまっていた。
 せめて、構内地図を端末に落としておくんだった。己の粗忽さを呪いながら、姫奈はすっかり重くなった足を止めて、手近な壁にもたれることにした。
 ちょうど丁字路だったそこから正面を見ると、背の低い建屋が両側に並び、突き当たりには大きな校舎がそびえ立っている。どの窓にも光は灯っておらず、人の気配もない。今しがた通ってきた左側も似たようなもので、残る右はといえば、キャンパスと外とを隔てているらしき植込みがあるのみだった。
 高校生活の初日も初日に、校内で迷子。これで入学式に遅刻でもした日には、とんだ笑い者だ。焦りと苛立ちを孕んだ視線を左にやった刹那、そこに女性らしき人影を見て取った姫奈は、思わず「あの!」と声をかけていた。
 同じ一高の制服を着こなした、ウェーブも豊かな黒髪の生徒だ。振り返った彼女の胸元にエンブレムを、さり気なく手が置かれた手首にCADを見て取って、やはり在学生だと内心に快哉を叫ぶ。脳裏はすっかり晴れ上がっていた。
「……あなたは、新入生ですか?」
 きょとんと問いかけてくる先輩のもとへ駆け寄って、姫奈は勢い込んで「はい!」と答える。安堵からか、顔に笑顔が溢れているのが自分でもわかった。
「その、暇つぶしに歩いていたら、どこにいるかわからなくなってしまって……お姿が見えたものですから、つい」
 遅れて押し寄せた羞恥が、顔をだんだんと塗りつぶしていく。頬の紅潮が幸いしたのか、当惑と警戒半々だった顔は「あら大変」とクスクス緩み、自信たっぷりなそれに切り替わってくれていた。
「でもわかるわ、私も入学したての頃おっかなびっくりだったもの。……講堂まで、一緒に行きましょうか」
 笑顔はそのまま、コミカルに胸を張った彼女に、「お願いします……」とへどもど頭を下げる。
 入学式の日、それも直前になって校内を歩いている先輩に限って、暇ということはあり得ない。迷子でほっつき歩いている間、在学生らしき姿は影も形もなかった。わざわざ入学式のために学校に出てきているに違いなく──忙しいはずの人なのだ。それを、呆れも急かしもせずに手を引いてくれる。
「嬉しいわ、頼ってくれて」
 自分より少し背の高い、間違いなく自分よりオトナな先輩。「あの、お名前は……」と切り出したのは、このまま借りっぱなしじゃいられないと思ったからか。歩きだしていた彼女が立ち止まり、振り返る。叩き込まれ身につけた礼儀の中に、生来の律儀さが見えたような気がした。
「ここの──第一高校の生徒会長を務めています、七草真由美です。よろしくね、えっと……」
 聞こえた言葉をたっぷり1秒はかけて読み込み、泡を食って「あ、姶良姫奈です!」と頭を下げる。ひとつに結んだ後ろ髪の上で、僅かに息を呑む音を聞いた気がした。
「その、こちらから伺ったのに名乗らず……とんだ不調法を……」
 まずは自分から名乗るとか、質問に質問で返さないとか。そういった礼儀はある程度教え込まれてはきたが、所詮付け焼き刃は付け焼き刃だ。普段気にせずズケズケと物を言っていたツケが、ここに来て祟ったらしい。
 この先輩に嫌われたくない。道も礼も知らない、と思われたままでは、あまりに幸先が悪すぎる。緊張しきりです、と顔に書いて頭を上げると、彼女の微笑みが頷くところだった。
「──姫奈さん……いえ、姫奈ちゃん、かな。あらためて、よろしくね」
 聖人か。大袈裟な物言いが好きな脳みそが、人好きのする先輩の顔にそうタグ付けしていく。殊更にそれを剥がす気にもなれず、姫奈も微笑みとともに「よろしくお願いいたします、生徒会長」と返した。
「硬いなあ……真由美先輩、でいいのよ?」
 片目を閉じた先輩がいたずらっぽく笑う。自分の足に蹴躓いたのをなんとか堪えて、姫奈はころころ笑う彼女をまじまじと見つめた。
「……入試でね。魔法理論と魔法工学で、今年はふたりの満点回答者がいたの。ひとりは落ち着いてたけど……もうひとりはおっちょこちょいみたいね」
「返す言葉もございません……」
 小学生じゃあるまいし、しっかりしろ。頬を挟むようにぱちんと叩いて、若干ヒリヒリする顔を真由美に向ける。「もう、大丈夫です」と胸を張る姫奈を、真由美が噴き出す音が迎えた。
「ひ、姫奈ちゃん、ほっぺた真っ赤よ……?」
 冷やさないと、とハンカチを取り出す真由美に、姫奈は思わず半眼を向けてしまう。そりゃ、子どもじみたやり方でしょうけども。身長150センチもない姫奈がやれば、さぞ子どもじみて見えたことだろう。先輩だって、私が背伸びすれば変わらない身長なのに。だいいち、ハンカチだけでどう冷やすつもりなんだ。
「痛くなければ覚えません」
 むす、とした内心が伝わったのか、真由美の取り繕うような咳払いが虚しく丁字路に響いた。
「──じゃあ、行きましょうか。姫奈ちゃん新入生」
「……お願いします、真由美先輩」
 こっちよ、と歩く真由美に従って、姫奈は今しがた来た道を戻り始めた。